さとう内科医院の歴史





 
 初代の佐藤内科病院は、長崎市外浦町44番地に私の祖父;佐藤光重が、明治42年に創立しました。
 昭和15年からは、二代目;佐藤 昇が継承。昭和20年まで、50床の病床を持つ町中の病院でした。
 外浦町(ほかうらまち)とは、聞きなれない方も多いでしょうが、旧長崎県庁の正面、”精霊船”が集まり、
 ”くんち”のみこしや山車が通る大通りで、
昭和20年8月9日原爆落下の後、県庁から出火し、この外浦町、
 裁判所、中島川西岸を焼き尽くした火災とともに、戦後の区画整理で消滅した町です。                      (長崎市医師会報、昭和60年6月号35頁、原爆による診療所及び住宅の罹災状況。長崎原爆戦災誌)
 当時より万才町にお住まいで、当時のことを知る、長崎史談会幹事だった故林要一郎氏が、外浦町の
 たたずまいを、十八銀行発行の”ながさきの空;第十集、発刊10周年記念号に、”外浦町の歴史・史跡と
 思い出”と題して詳しく書いておられます。
 私も、読ませていただいて自分のルーツを知ることが出来ました。
 

  以前、万才町3−1にお住まいの、故林要一郎氏のお姉様が
描いてくださった、外浦町の佐藤病院 


 昭和21年2月軍医として招集されていた父、昇は、佐藤家のもともとの出身地である、長崎市西泊町66番地 
に内科医院を開業。
 西泊町には、古くから、女神番所とともに、貿易船を取り締まる"西泊番所”(海の関所)があり、佐藤家は、
貿易にかかわりを持っていました。そのときに建立された家は、天草石作りの蔵をもち、防火のため、壁には 
”こんにゃくレンガ”を配した、日本家屋で、その構造の珍しさから、1997年3月長崎県登録文化財に登録
されました。
 

     
     

  
 昭和33年9月昇は、西泊町から、現在地(当時、城山町1丁目)に転居。外来だけの、医院を開業。             
この地で、20年間開業医を勤めました。昇が高齢となったため、私が、継承すべく、診療所を昭和56年            
12月に、建築し始めた矢先の昭和57年1月昇が死去。                                        
 ここからが、三代目、佐藤辰夫の出番となります。昭和57年9月20日、現在のさとう内科医院を              
19床の入院ベッドを持つ”有床診療所”として開業致しました。                                     
 さらに、平成3年7月24日に、医療法人”宏友会”と法人化し、平成12年には、療養型病床群、CT室、         
リハビリ室を増築しました
。リハビリテーションは、理療Uの施設としてご利用いただきましたが、医療保険、         
介護保険の改定から、平成18年5月1日”指定介護予防通所および、指定通所リハビリテーション”の           
施設、いわゆる「デイケア」にいたしました。                                                
 さらに、平成23年6月1日城山町18番19号に指定通所介護予防および、通所介護施設"                
デイサービスセンター城山クラブ”
を開設いたしました。                                        
 平成28年7月31日介護療養型病床群、短期入所療養介護を廃止。平成28年8月1日医療療養型病床          
へ転換。平成31年4月療養病床廃止。一般病床17床のみと致しました。                                
 令和1年10月1日、短期入所療養介護(ショートステイ6床)を再開致しました。                          
 令和3年12月をもって、四代目佐藤 剛(糖尿病専門医)が承継しております。                         

       トップ